私たちにとって「日常」は本当にいらないものでしょうか?
本当にいらないものとは「日常」に対する嫌悪感ではないでしょうか?
私たちには「日常」を過ごす自分に対して、嫌悪感を抱く必要があるのでしょうか
前回、このような考えを共有しました。そして今回はこの考えを得て、更に感じたことを共有します。
私は今まで、「日常」しか過ごせていない自分を励まそうとするときは、「日常」も大事だ、当たり前のことに感謝していこうなどと考えていました。
しかしその言葉は自分を励ますためだけの言葉であり、そこに確信は一切ありませんでした。
それが今回、批評理論で時間の速度の技法を学んだことで、頭で何となく思っていた言葉が確信に変わり、「日常」を過ごすことの考えが変わりました。
このように何となく思っていたことを、言葉で示してくれることは、何かの決定打になり、安心感を与えるのではないでしょうか?
それが今回の私の場合は、本から表現の技法を学ぶことでした。
また私に決定打を与えたものが、身近な存在の本であったように、私たちは言葉や他の表現方法を使うことでいつでも誰かにとっての、決定打を与えられる存在になれるはずではないでしょうか?
反対に自分の身近なところに、決定打を与えてくれる存在がいるのではないでしょうか?
私たちは意識ひとつで、「日常」に大きな価値を感じられます。
自分の人生のすべてが無駄じゃないと思えるような日々を過ごしませんか
[Ⓐ’s blog no,4]